創部に関して
大正12年(1923)5月、7年制高校として高等科の第1学年が開設された。
文科1組、理科1組の80名足らずであった。
陸上競技、野球、テニスなどの運動部がいち早く創設された。
2学期が始まると、ラグビーという競技が非常に男らしく、やり甲斐のあるスポーツであるので、なんとかラグビー部を作りたいという機運が数人の中から起こった。
いろいろ工夫してみたが80名足らずの中から15名を引っ張り出すのはとても無理であり、彼らは、残念ながらこの年は見送り、もう1年待つより手はなかった。
翌大正13年、生徒数も150名となった。
中学時代いろいろ運動してきたものが割合多かったが、当時の中学でラグビー部のあったのは神戸2中(現県兵庫)くらいで、生徒のなかでもラグビーを知っているといっても1度か、2度見た程度であった。
年2,3回新聞に載る慶応―3高、慶応―同志社戦の記事を読み、その激しい試合を想像したり、映画でアメリカンフットボールの猛烈なタックルの場面やボールを持って突進する様子などを見たりして、このスポーツこそ男のスポーツだと未知のラグビーにあこがれていた。(米フットボールとラグビーの違いを知らずに)
2学期早々、やっと16,7名を集めて練習を始めたこの時点が、甲南ラグビー部の創部といえる。(以下本文の一部省略)
練習方法も分からず、全くの初歩から研究し練習をしていかねばならなかった。
10月末ごろ、ラグビー界リーダー、香山氏に来校を願い、1日指導を受けた。
誰の世話で来ていただいたか分からないが神戸外人クラブのSH、アブラハム・ジョエイ氏にコーチをしていただき練習を始めた。(戦後、ご子息の譲次氏も甲南でラグビーを)
最初は8のFWチームであったが、慶応OBの大井(大市)氏、宮地氏にコーチを仰ぎ、当時の慶応の7FWのフォーメーションを採るようになった。
練習相手もなかったので、部の創立で世話になった神戸高商(神戸大)にたびたび教えを受ける意味で、練習相手をしてもらった。(以下一部省略)
同年12月、甲南とほぼ同時に開校した姫路高と野球、テニスなど定期戦が行われていたので、ラグビーの定期戦の話も決まった。
第1回戦を対象14年2月、明姫沿線浜の宮Gで初めて試合らしい雰囲気を味わい、予想以上の奮戦により13-3で初勝利を得た。
・・・・その後、昭和23年に新制甲南高校、昭和26年開学の甲南大学ラグビー部に創部からの伝統と精神は変わることなく引き継がれている。